2026年9月19日
信州・大町の美麻という里に、稲刈りの手伝いに行った。


夏の盛りは日照りが続き、田んぼの主は空ばかり見上げていたそうだ。ところが刈り入れの時期になると、今度は長雨である。降らぬときは降らず、降るときは降り続く。天というのは、昔から人の都合を聞いた例しがない。
おかげで稲穂は軽く、湿りを含んで気難しい。刈り取った稲を稲架(はさ)に掛けて干すにも、「この穂は、はたして無事に乾いてくれるのか」という不安が、ずっとつきまとった。農とは、祈りながらする仕事なのだと、にわかの手伝いにも分かった。
私の持ち場は、刈る人でも束ねる人でもない。刈られた稲を運び、稲架に掛ける、ただそれだけである。
しかしこれが、侮れない。束を抱えて田んぼを歩き、掛けては戻り、また抱えては歩く。刈る人の背中を横目に見ながら、せめて自分の持ち場だけは、と無言で往復した。見渡せば、青いシートをかぶせた稲架が、山の緑を背にずらりと並んでいる。あの青は、雨を案じる人の心の色なのかもしれない。
一日の仕事を終えて、まずは近くの温泉に身を沈めた。
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湯につかると、腕と腰が「よくぞやった」と「もう勘弁してくれ」を同時に言う。人間の体というのは、まことに正直にできている。湯気の向こうで、泥も汗も、ついでに日頃のあれこれも、ゆっくりほどけていった。
さて、労働のあとには褒美がある。これがなくては人間は働かない。
宿の庭では、レンガを積んだ炉に火が入っていた。ゆらゆらと立ちのぼる炎の向こうで、皆の顔が赤く染まっている。大きな鉄板に、鹿肉が載せられた。じゅう、と音がして、山の匂いが夕暮れの空気に溶けていく。
手には、シャンパンである。
湯上がりの体に、冷えた泡がしみる。鉄板で焼いたジビエを口に入れる。野の獣の滋味と、泡の涼しさが舌の上で出会って、そのとき私は思った。——ああ、この一杯のために、俺は今日、稲を運んだのだ、と。
高級料理店の静かな卓では、こうはいくまい。稲を運んだ者だけに与えられる、まことに安上がりで、まことに贅沢な報酬であった。


この夜の宿は、美麻珈琲さんのストローベイル、藁を積み上げて造られた家であった。
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ぼってりと白い壁に、ちいさな窓がうがたれている。藁の家に泊まる人間が、昼間は稲の束を担いでいたのだから、話がうまくできすぎている。土から生まれた藁が、稲架にも、壁にもなる。そう思うと、その夜の布団は、いつもより少しだけ温かかった。
翌朝、窓を開けると、眼下にはキャンプ場のテントがぽつりぽつりと並び、その向こうには蕎麦畑がなだらかな丘をなして広がっていた。朝の薄い雲の下で、緑がしずかに息をしている。テントの住人たちは、まだ夢の中であろうか。稲の次は蕎麦。この土地は、人の腹を満たすことを、いつだって忘れないらしい。


今日の振り返り
庭先にはトトロが門番よろしく立ち、「GARDEN」のアーチが朝の光に白く浮かんでいた。
稲を育てる人がいて、刈る人がいて、運ぶ人がいて、火を焚く人がいて、杯を交わす人がいる。そうして、あの稲穂はやがて誰かの茶碗に収まるのだろう。
天日でゆっくり乾いた米を、いつか炊いて食べる日が来る。そのとき私は、きっとこの夕暮れの炎の色を思い出すにちがいない。
