人は、何によって憶えられたいか?母にお別れを告げる時にピーター・ドラッカーのその問いかけを思い出しました。 |
義理の母が他界しました。ドラッカーの何によって憶えられたいのか?の問いをふと思い出しました。
まさに慈愛の人でした。優しい笑顔でいつも微笑みかけ周りに対しての心配りが行き届いた人でした。
義理の母は、身内への愛情だけでなく民生委員を30年以上も勤められ地域の児童や老人へのお世話を献身的にされていました。
そんな母が最後は、あっけなく眠るようにあの世へ旅立たれました。そして葬儀は、家族葬でコロナ渦の状況でも在り身内だけでの見送りになります。しかし、お通夜に告別式とも気がついて見ると多くの方々にご回想にいただきました。享年83歳の家庭の主婦であった母にこの様の多くの弔問客があったと言う事は、きっと故人の人徳だったのでしょう。
▼お通夜の夜も線香の火を絶やさぬ様に子供や孫に守られて
私は、24歳で結婚した後、1年余りで実母を末期癌で亡くしました。そのために義理の母は、本当の母の様にいつも有り余る愛情を持って接してくれました。私にとっては、義理の母は、良妻賢母、美人で料理が上手い本当に自慢の母親でした。
お母さんとの出会いに感謝!ありがとうございます
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今日のまいどあり
人間は、「生と死」に関して「死」を嫌い悪で「生」を好み良いと捉えがちです。しかし、仏教においては「生」も命で在り「死」もまた命と考えいずれも命であると考えるそうです。「生」と「死」は、別々のものと考えるのではなく生と死の差を取ることを悟りと言うそうです。またその生死を生き抜く境涯を「覚悟」と言うのだそうです。
故人に感謝し、毎日を覚悟を持った生き方で亡くなられた先人に恥じない生き方をしようと心改まりました。