尼崎の魅力を7コマのブロックキャラクターに載せてメモで発信する【TAGGED 7CUT MEMO】だんじり編
左から2コマ目は、だんじりのデザインです。やぐらの上で踊る若い衆の躍動感が良いですね。
尼崎では、例年9月の敬老の日とその前日の2日間のお祭りです。
宵宮(敬老の日の前日)は、勇壮なだんじりのパレード。
本宮(敬老の日)は、山合わせ(向き合った二基のだんじりが差し合う)
江戸時代初期に築かれた尼崎城の城下町・築地ならではの行事です。
さらに、有名なのが8月1日、2日と貴布禰神社夏季大祭のだんじり祭です。
歴史を遡ると300年も前からあるお祭りだそうです。
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関西では、岸和田のだんじりまつりが有名ですがこちら尼崎でも勇壮なだんじりまつりが行われ地域の風物詩として彩られるようです。
以下参考文献/稲垣恵一『尼崎城下の祭り』より
夏祭りの意味と「お渡り」。
貴布禰神社の夏祭りの起こりは平安時代にさかのぼると言われるが、当時から貴布禰神社の氏地は、多くの船が出入りする港があり、漁師や市場関係者や商工業者が多く住む「都市」であった。その時代において、都市の人々が最も恐れたのは疫病の流行だった。そのため、1年で一番気温が高く、病気にかかりやすく、食べ物も腐りやすいこの時期に、疫病退散を祈願して祭りが執り行われるのだ。
貴布禰神社に限らず、夏祭りでは氏子や氏地の無事平安を見届けるべく、神さまが神社の外へお出ましになる。ふだんは本殿の奥深くに鎮座まします神さまが、この日はわざわざ出て来てくれるのだ。氏子たちにしてみれば、こんなにありがたいことはない。その感謝の気持ちを表すために、氏子たちも神さまに付き従い、行く先を先導するようになった。こうした行列は「お渡り」あるいは「渡御(とぎょ)」と呼ばれ、有名な大阪の天神祭の陸渡御・船渡御をはじめ、全国各地の祭りで見られる。
「川渡御」「船だんじり」も。
貴布禰神社のお渡りは江戸時代の元禄期から特に賑やかなものになったようで、氏地に川が多いため、神輿を船にのせる「川渡御」も行われていた。そのコースは、神社を出て尼崎城の南側を通って辰己町まで行き、そこから船に乗って川づたいに沿岸部を巡り、再び神社へ戻る。各町がこぞって参加したお渡りは尼崎一番の盛り上がりを見せた。
そのお渡りの列にだんじりが加わったのは、古い記録によれば1700年代の初頭のようだ。これは大阪天満宮の天神祭や岸和田とほぼ同じ時期であり、大阪湾沿岸部の各地での流行が取り入れられたものだろう。
また、川渡御の際には「船だんじり」も見られた。だんじりの台車部分を外して船にのせ、中在家にあった魚市場近くの船だまりで待ち受け、神さまの船をお迎えするのである。かつては夜になると真っ暗だった尼崎の沿岸部に篝火を焚いた船だんじりが現れる光景は、それはそれは迫力があり、関西一円にその名を知られていたという。
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お渡りは消え、だんじりが残る。
このように、貴布禰神社の夏祭りは今とはまったく異なる風情を見せていた。ではなぜお渡りも船だんじりも行われなくなったのか?
それには太平洋戦争での被災と戦後の街づくりが関わっている。空襲で焼け野原になった貴布禰神社の氏地が復興されるにあたり、お渡りの中心だった「本町通」が国道43号線となり、行列が通れなくなってしまったのだ。また、工業地帯となった43号線以南にはほとんど人が住めなくなり、お渡りやだんじりに参加する人が激減したことも大きい。昭和33年(1958)に一度復活したものの、資金難や人手不足などで2年間だけで終わってしまった。
一方、だんじりの曳行は時代によって数の増減はあるものの、途絶えることなく続いてきた。今や祭りの目玉である「山合わせ」が、いつどのように始まったのか詳しくはわからないが、昭和10年代まではだんじりが神社に宮入りする時に順番を争ってケンカをしていたそうで、これがいつしか山合わせと呼ばれるようになったという説もある。昭和30年代後半に一度途絶えたが、昭和47年(1972)の第1回市民まつりで復活し、現在のような形式に整えられていった。
今日のまいどあり⤴️
こうやって歴史を紐解き調べてみるとその時代の出来事や様々な背景がよくわかります。だんじりひとつをとっても何のためにやられているのかをみるとただただ騒いで盛り上がっているだけでなく人々の生活の安寧や五穀豊穣を願っての行事だということがわかります。地域に根付いた文化を大切にしていきたいものです。