この世に生を受けた誰もが必ず迎える「死」について最近、考えることが多くなってきました。
特に自分にとって身近な人が亡くなった時であればなおさら深く考えます。
お寺のご住職は、亡くなられた人の戒名をつける時に亡くなられた方のことを詳しく聞かれます。
そんな時に、亡くなられた人の人生を振り返り、◯◯な人ですと亡くなられた人を回想します。そして、その情報にちなんだ戒名がつけられます。
自分であれば、どのような人であったと周りの人から言われるのでしょうか?
人は、裸でこの世に生を受けて裸でこの世から去っていく。
つまり、世の中のおおよその人達は、形あるものはほとんど何も残すことなど無く世を去っていきます。そして、せいぜい身近な人たちの記憶の中に残るくらいのものです。
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財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上なりと言う言葉がある
職業人として勤めるに正に財産を残すのは下流で事業を残すは中流、そして人を残すのが上流つまり、人は、形あるものを残すよりもその思想や哲学、物の考え方や生き方を残すことが上とされる。
複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている「般若心経」は以下Wikipediaより引用
「般若波羅蜜多心経」との正式名は、「般若」が、事物や道理を見抜く深い智慧を意味する語(paññā、パンニャー)の音写、「波羅蜜多」(波羅蜜)が、悟り・彼岸に至るための行為を意味する語(Pāramitā、 パーラミター)の音写、「心経」が重要な教え(経)を意味するため、「深い智慧によって悟りに至るための重要な教え」という経題名と理解される。また、大乗仏教においては、悟りに至るための善行を6つ掲げて、6つの波羅蜜(波羅蜜多)=六波羅蜜と呼ぶが、このうち最も重要な「波羅蜜」が「般若波羅蜜」(智慧の波羅蜜)とされている。そのため、「般若波羅蜜多心経」との題名は、「六波羅蜜の中で、最も重要な『智慧の波羅蜜』について説く教え」を自称するものと捉えることもできる。
初期仏教(阿含経)においては、全ての苦(生老病死など)の原因は自己への執着に伴う煩悩であるという因果律で世界を認識する。その上で、苦から解放されるためには、そのような因果の流れを逆にたどって原因を絶つこと、つまり、煩悩、更にいえば自己そのものへの執着を絶って涅槃に至ることが必要であるとし、その具体的方法として、自己を含む世の全てが実体のない「空」であること(諸行無常・諸法無我)を正しく認識・体得すべく、出家・修行(八正道)による自力救済を説く。一方、般若心経(で要約される般若経)は、この初期仏教の思想を更に乗り越える形で、自己を構成する五蘊(色・受・想・行・識)や世界を構成する十八界、また、十二縁起や四諦といった因果律(これを前提とした自力救済)など、初期仏教が分析的に到達した諸概念などさえも、実は「空」なのであるという、より超然とした世界観に立つ。そして、そのような世界であればこそ大いなる力を発揮する真言(マントラ)による救済を説く教えとなっており、出家によらない救済を肯定する大乗仏教としての特質が表れている
今日のまいどあり⤴️
今回は、義父が行年86歳で天に召されました。義母が亡くなり1年半になりましたが、その間は、誰に世話をかけることもなく静かに息を引き取られました。
立派に人生を全うし仕事におかれましては多くの人のお世話をし身近な家族からは愛された素晴らしい人生です。このように生きたいものだと思います。
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自分も歳を重ねて還暦も過ぎはしたものの自分の人生を人の役に立つ人生でありたいと思います。